かみさま。


3月と9月のお彼岸にはできる限りはお墓参りに
行くことにしている。
大儀はない。習慣と気持ちの問題だ。
お墓は単なる対象にすぎず、
本来「信仰」や「先祖を敬う気持ち」は
年2回、春と秋にだけひょっこり顔を出すわけではい。
何処でも、いかなる、どんな時も「お墓参り」は可能なはずだ。
いわゆる世間一般でいうところの仏教徒だが、
敬けんな信者でも特別な宗教活動をしている訳ではない。
まぁ、このまま先、何ごともなければ、
長方形のお墓に入る予定ではいる。
いくら、仏壇が家にあっても、堂々とクリスマスソングを唄うし、
おみくじで一喜一憂し、神社で「あれ?!手、叩いていいんだよね?」
と確認もする。チョコレートだってカーネーションだって
本来の意味が薄れ、いや、全くなくなり
企業の経営戦略だとわかっていても、
とりあえずのっかってみる。
しかし、これらの行事なりイベントは「異教」のものと
意識したことがあるだろうか。
いや、ほとんどないな。
作者も一神教の信者からすれば本当にビックリするくらいの
「曖昧で好き勝手な信仰心」極まりない日本人の内の1人だ。
でも、日本人の場合は、根底にある
多神教の思想」が節操のない宗教観を
揺るぎないものとしているのだろうな。きっと。
人は弱いので、何かにすがらなければ
生きて行くのは到底無理な話。
なんとも非力で無力だ。
それは、国も人種も文化も生活様式
関係なく同じだと思う。
そして、それでも強くなりたいと、
救われたいとだれもが思う。
その願いが「祈り」に、果てには
「信仰」に通じているのではないか。
教義や戒律のある宗教ではなく、
きっと誰の心にも信仰は存在すると思う。
確かに苦しい時の神頼みはする。
その時うっすらイメージするのは
「ドリフの志村けんの神様」だったりするのは
いかがなものか。